LOGIN「小春を家に連れていったのは俺の判断ですが、今ではそれで正解だったと自分を褒めていますよ」
樹は言葉を区切る。
「小春が、話してくれました」
樹が小さく笑う。
その笑みはどこか痛々しく、冷酷と噂される男には不似合いだと隆盛は思った。
「しばらくして、ようやくという形でしたけれど」
花乃の葬儀のすぐあと、後妻の夏美が千夏を連れて朝比奈家に来たこと。
花乃の部屋は夏美に、小春の部屋は千夏に奪われたこと。
柳沢がまた一枚、書類を隆盛に差し出す。
「小春の高校時代の成績です。見ての通り優秀で、本人も医学部への進学を考えていました」
「だが……」
思わず口から出た反論に、隆盛は目を伏せる。
「そうです。小春は大学には進学していない。朝比奈崇道が許さなかったそうです」
樹は言葉を切った。
「朝比奈崇道は小春を病院で働かせた。そして、いつの頃からか、院長の仕事も小春に押しつ
朝比奈家が積み上げてきた嘘は、静かに、しかし確実に崩れ始めていた。翌朝、門倉悠真はいつもより早く朝比奈総合病院へ出勤した。「おはようございます、門倉先生」「おはようございます」すれ違う職員へ挨拶を返しながら、院内を歩く。これまでは気にも留めなかった職員たちの表情が、今日は妙に気になった。「あ……門倉先生」「おはようございます」看護師たちは一瞬だけ顔を見合わせ、小さく頭を下げる。その空気に、悠真は違和感を覚えた。「何かあったのですか?」声を掛けると、一人の若い看護師が困ったように笑う。「いえ……特には……」そう言って足早に去っていく。その様子を見送りながら、悠真は立ち止まった。(隠している……)自分には言いにくい。口にしてはいけない。悠真はそんな空気を感じた。(小春さんに関わることか……)自分がいなかった間に病院の空気が変わっている。全体的に暗く、不安定。そして職員の多くが悠真を不安げに見る。なぜそんな目を向けるのか――悠真が朝比奈院長側の人間だからだ。.帰国した目的である手術の準備を終えたあと、悠真は医局に向かった。カルテを整理していたベテラン医師へ声を掛ける。「先生、少しお時間をいただけますか?」ベテラン医師は首を傾げる。「手術のことで、何かありましたか?」今日の手術はそこまで難しいものではない。ただ悠真の担当患者で、患者本人が悠真が手術を担当することを希望していた。(千夏とのこともあると思われているだろうな)「いえ、朝比奈……小春さんのことでお聞きしたいことがあるのです」
千夏が顔を上げた。「お姉ちゃん……」「私があの家に戻らないことと、千夏たちを追い出すことは別の話でしょう?」千夏は何も言えなかった。「でも」小春は穏やかなまま続ける。「私のものを、私のものではないことにされるのは、もう嫌なの」その言葉に樹の目元がわずかに緩んだ。「権利については必要になったときに整理すればいい」樹が言う。「今すぐ誰が出ていくという話ではない」「……そう、ですね……」千夏は俯いた。少しずつ、自分が理解しなければならないことが見えてきた。自分が知っていた朝比奈家とは何だったのか。父親から聞かされていたことは、どこまで本当だったのか。そして――いま一番大事なこと。「お父様がお姉ちゃんを連れてこいって言ったのは……」千夏が顔を上げる。「病院を継がせるためなの? 私じゃ駄目だから?」「……それは、違うと思う」悠真は目を閉じた。これまでのことを思い返しても、朝比奈崇道が小春に病院を継がせるつもりはないと分かる。ただ、そう振る舞っていた。誰かに向けたパフォーマンス。その誰か――思い当たるのは一人しかない。「皆川隆盛氏が、小春さんに会いたいと言った……としか考えられない」千夏の顔から血の気が引く。すっかり忘れていた。「お父様は……」千夏の認識では、皆川隆盛は先代院長の親友で、息子のように思っている崇道のやることに口出しているのだと思っていた。力関係では、崇道のほうが上。でも、違った。後ろ盾。崇道が院長でいるために必要な存在。
――朝比奈総合病院は小春の母親が継いだものだと知らないのか?樹の言葉に千夏は首を傾げた。「どういうこと?」本当に分かっていないらしい。樹は面倒そうに肩を竦めると、悠真を見る。説明する気はない。そう察した悠真は小さく息を吐いた。「先代の朝比奈病院長は、小春さんの母親、花乃さんの父親なんだ」「……え?」「朝比奈家の直系は花乃さんだ。院長は花乃さんと結婚して、朝比奈家に入った」千夏の表情が固まる。「お父様が病院を継いだんじゃ……」「花乃さんと結婚したから、後継体制の中に入ったんだ」悠真自身、門倉家との縁談を通して聞かされていた話だった。いま理事会に強い影響力を持つ皆川隆盛も先代院長の親友であり、先代から頼まれて娘婿である崇道を支えてきた。その説明をしながら、悠真は別のことに驚いていた。「……知らなかったのか?」「知らない……」千夏は呆然と呟く。「多分、お母様も知らない……」その声には、先ほどまでの強気さがなかった。小春は黙って妹を見つめる。嘘をついているようには見えない。本当に知らなかったのだろう。(知らされていなかったんだ……)千夏は幼い頃から、自分も崇道の娘なのだから小春と同じだと言っていた。むしろ自分のほうが父親に愛されているのだから、何をしても許されるのだとでも言うように振る舞っていた。もちろん、それで千夏にされたことが消えるわけではない。大切なものを奪われた。千夏のついた嘘に傷ついた。それでも――。(千夏も、お父様に教えられたことを信じていたのね)そう考えてしまう自分に、小春は小さく息を吐
――小春に事実を確認しなかったのですか?その質問に、悠真はすぐには答えられなかった。頭の中で婚約していた頃の記憶が次々と蘇る。病院で耳にした小春の悪評。千夏の涙。自分はそのどれもを疑わなかった。「……ありません」ようやく絞り出した声は掠れていた。「どうして?」確認したことがなかったことは、樹にはお見通しだったのだろう。なぜなら、この短時間ですぐに小春が悪女なんかではないことが分かった。穏やかな空気を纏ってこの場に現れた瞬間には分かっていたかもしれない。そのくらい小春は悪意からかけ離れている。だから樹が聞きたいのは、こっち。――どうして?(……意外とお人好し?)柔らかな雰囲気の小春とは対照的。表情がなく、樹の端正な顔立ちのどこにも穏やかさなどない。見ただけでは『冷酷』という表現がピタリと合う。だが、それならばこんなキッカケは作らない。(……いや、違うな)言葉をかけた先は悠真だが、樹が見ているのは小春だけ。小春は樹も悠真も見ていない。心配そうに小春が見ているのは千夏だった。小春が千夏を気にかけているから。悠真になんて一切興味がないくせに、「どうして?」などと聞いたのだ。(全く……)「俺にとって都合が良かったからですよ」樹は静かに頷いた。「小春さんが千夏を虐めていたなら、婚約者が代わりに謝罪することはおかしくない」婚約者である小春の代わりに謝る――それだけなら良かった。小春が汚した服の代わりに。小春が奪ったアクセサリーの代わりに。小春を言い訳にして物を贈る。「ありがとう」と言って笑う千夏を可愛いと思った。お
「千夏。少し黙ってくれ」悠真に初めて拒絶するような視線を向けられ、千夏は言葉を失った。応接室を重い沈黙が包む。「……小春さん」悠真に分かっていることは、小春が家を出てここにいること。そして。「ここにいるのは君の意思、そう思っていいですか?」「はい」小春自身が、ここにいたいと思っていること。それならば。「突然来て申し訳なかった」頭を下げた悠真に小春は軽く目を瞠り、首を横に振る。「その謝罪は樹さんと、篠原家の皆さんにお願いします」「……小春さん」「私自身は、こうしてきちんとお話しできて良かったと思っています」小春の言葉に悠真は困ったように笑う。「話は、できたのだろうか」「……言われてみれば」でも、と小春は笑う。「今度は納得できる形で終わったではありませんか」“今度は”、と含みのある言葉。(前回は……)一方的な断罪劇。酔っ払って自分の言ったことさえも定かではないという無様なもの。悠真の顔が赤くなる。「あのときのことは、できたら忘れてほしい」「……忘れるのは難しいと思います」小春が首を傾げる。「そうそう体験できるものでもない……ですよね?」確かめるように、小春はこれまでずっと黙っていた樹に声をかける。樹は小春を見たあと、悠真を見て、また小春に戻す。「二度と経験することはないだろうな」これを聞いた瞬間、悠真には分かった。『自分が小春をあんな風に捨てることはない』樹の表情からもそれは伝わってくるのだが。「そうですよね」
穏やかな空気で、このまま終わると誰もが感じていたとき。「お姉ちゃん」千夏が口を開く。「もう意地を張るのはやめなよ」「……意地?」小春は静かに聞き返す。「そう。お父さんも本当は心配してるの。だから家へ帰ろう?」小春は少しだけ目を伏せた。「千夏」「お父さんも、お姉ちゃんが謝れば許してくれるよ」「もういいの」「え?」小春は千夏を真っ直ぐ見た。「私は、朝比奈家へ帰るつもりはないの」穏やかな声だった。しかし、その言葉には迷いがなかった。「……どうして?」千夏は目を見開く。大袈裟に見えるほど目を見開いているが、千夏は本気で驚いていた。理解できない子どもを見るように、小春は優しく微笑んだ。「家を出ていけと言ったのは、お父様でしょう?」「それは……」真実。でも、それを認めることはできない。「お父さんも、感情的になって……」「違うわ」小春は初めて千夏の言葉を遮った。「お父様が私のやること、私の言うこと、私自身に何かを感じたことはないもの」応接室に静寂が落ちる。「だから、私に対して感情的になることはあり得ない」小春の声は静かだったが、その言葉は墨でしっかりと引かれた線のようだった。断罪のように、切り裂くような言葉ではない。小春に誰かを傷つけるつもりはない。ただ、それが消えない事実なのだと言っているだけ。「私はその決定を受け入れて、出ていったの」小春はゆっくりと顔を上げた。「だから、なかったことにはできないし――しないわ」千夏は息を呑んだ。小春の言葉には恨みも悲しみもない。それを消化し、現実として受け入れた強さがあった。「……お姉ちゃん?」ぼんやりと呟いたあと、千夏はすぐに気持ちを切り替える。何ごともなかったように。貼り付けたような笑みを浮かべたまま、小さく肩を竦めた。「お姉ちゃん、どうしちゃったの? 何か、あった?」「ええ」小春は穏やかに千夏の言葉を肯定した。千夏の口元が緩む。「それって、篠原社長のせい?」千夏の言葉に、小春は首を横に振る。「樹さんのおかげ」“樹さん”。小春の口から自然と出てきた言葉に、千夏は意味深に微笑む。「篠原社長と親しいんだね」千夏は小春と樹を見比べる。「ずいぶんと大切にされてるみたいだし」「ええ、とてもお世話になっているわ」千夏の口元が歪む。「お姉